組合史

加工組合史

室町年間に其の形が造られ,各時代永い歳月を島民の厳しい生活の糧として, 絶える事なく大切に保存され伝承されたくさやの液。 江戸時代、半農,半漁の厳しい生活の中,春から秋にかけての漁業は唯一の現金収入の道であり,鮮魚として出荷、売れ残りの魚をくさやの干物に加工,生活の糧であり,冬の時化に備えた保存食であった。

貧しい生活の中,食を切りつめ捻出した少量の干物を親戚,友人等で持ちより合荷とし, 魚河岸に出荷し販売,貴重な現金収入であったが商いとしての確立は無い。 其の様な生活の中,近隣の有志を集め,事業として仕入,販売と安定した現金収入の道を模索, 確立の為,明治31年島民有志を発起人とし,組合設立準備会を発足させ2年に亘り準備。

明治33年(1900年)5月8日付を以って,願人総代,田代源太郎,外5名の連署を以って許可申請をなし,同年5月14日付を以って東京府知事,千家尊福男爵より正式認可を受け, 初代,組合長に田代源太郎を選出,以後,東京府新島五十集営業組合として,新島本村地区に おける海産物に対する総ての集出荷及び加工業として発足。
その後,発展的に式根島支部を結成, 組合員も増加し,本村129名,式根島支部17名を有する組合となる。

大正元年組合員数は最大となり155名を有す。中央市場法案実施となり旧魚市場商取引制度に著しい改変を加えられたので,我が組合もこれに即応すべき必要を認め,昭和12年3月18日 臨時総会の決議をもって東京府新島五十集営業組合を発展的に解消し, 新島本村海産物商組合となし,東京府大島支庁新島出張所を経て名義変更の届出をして新発足。 同年7月支那事変勃発,それ以後は激変した経済機構もまた戦時統制令に依って異常の制約を受け,昭和14年以降は益々営業不振となり,加えて太平洋戦争開始後の漁労に多大な支障を きたし,我等組合もまた漁業者と運命を共にして衰微の一途を辿りつつ終戦に至りましたが, 混沌とした時代の中でも代々伝わるくさや液を我が家の味として,在島民の手により絶やすこと無く,守り抜きました。ここにおいて戦争末期の混乱を整理し,未曽有の事態に対処する必要上, 昭和22年1月8日通常総会の決議に依り新島本村海産物商組合を解散。その後戦後社会も発展的となり, 先祖創業以来の伝統的加工技術と完備した製造施設をもって漁獲物の処理と出産品の出荷の万全と加工品質の改良に一層の努力をするため, 昭和23年新島本村魚類加工集出荷組合を結成。

昭和24年3月10日依り発展的に新島本村魚類加工集出荷組合を名義変更し, 新島本村水産加工業協同組合とする為の設立準備会開催。 昭和24年8月4日新島本村水産加工業協同組合設立, 此れより新島の地場産業しての位置づけも決まり,先人達の努力により脈々と受け継がれたくさやは急激な戦後復興と共に大きな伸びを見せる其の中で高級食材として付加価値を付け,嗜好品として確立し,値段を安定させたことが以後, 厳しい条件下の島の中で,他を寄せ付けない地場産品となりえたのは,先人達の努力であり, 先見の明でもあった。

昭和56年12月,村の基本計画,基本構想に掲げられ10年の時を経て着工,平成4年組合員の待ち望んだ2次加工施設及び直販施設として,新島村特産物開発普及センタ-竣工。 同年,協業化を踏まえた新島村1次加工施設着工,3年の継続工事を経て,平成4年完成。 1次加工施設,2次加工施設と共に同敷地内に隣接,観光拠点としての役割を担う。2000年、組合事務所、購買、普及センターを含む組合本舎完成.
2000年(創立100周年) を迎え組合本舎完成のイベントで、村民還元セールを行う。

新島水産加工業協同組合